*くやしーからもっぺん書き直します!!!

ストライドのお猿さん

マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室]

マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室]

はい。これ読みました。
さっきも同じこと書いたんですが、見事に消えちゃったんで、またやります!!負けず嫌い発動です。
かなり投げやりモードで書き進めていきます。

マクルーハンの光景」これはかなり読みやすく、マクルーハン初心者にはうってつけではないでしょうか。ポイントを押さえながらマクルーハンの全体像を押さえることができます。
図書館で借りたのですが、これは自分で買いの価値ありです。

なぜこれを読んだかというと、院試の過去問にマクルーハンに関する出題がされていたので、これは学ばんといかんとゆー不純な理由で読み始めましたのです。ところがマクルーハン!これはかなりおもしろい人です。書籍が良かったのかな。とりあえずぐんぐん読んでしまいました。

さーマクルーハンについていきましょう。

まずこの図式「メディア=テクノロジー=身体器官の拡張
これがマクルーハンのメディアに対する基本の姿勢です。

ここで、従来のメディアとは身体の外的器官の拡張でした。
動いている足→車輪  目→鏡  歯→のこぎり、包丁  といった具合です。

それに対し、電子メディアは中枢神経系を拡張している。
私たちは頭蓋骨を内側に包み、脳を外側にむき出している状態です。

従来のテクノロジー(メディア)は閉鎖体系を作り出す。特定の感覚と一対一で対応するため、ある感覚のみを拡張し、相互作用を起こさない。
一方、電子メディアは中枢神経の拡張であるため、閉鎖体系を作り出さず、感覚の相互作用を起こします。

これを感覚比率がズレた。と捉え、そのズレにより聴覚空間が生まれます。これは音が上下左右から迫るように、同時多発性をもった空間です。
(一方従来のメディアは視覚空間です。これはグーテンベルク活版印刷の登場以来続いていた、直線性を持った文字重視の空間です。)

この聴覚空間により、世界のどこかで起きたことは瞬時に共有されす。「世界を縮小させ、一個の部族、村にする」わけです。これは集団的形式、共同体的な絆の感覚を持った部族主義だと言えます。
(今回の記事では触れませんが、地球村に続く考え方です。)

メディア=テクノロジー=身体の拡張
従来のメディアと電子メディア
視覚空間と聴覚空間

これらを押さえた上でマクルーハンの有名な言葉
ホットなメディア
クールなメディア
について
これら二つの差違は精細度と参加度という基準で分けられます。
精細度とは情報の密度です。これは伝えられる内容の善し悪しではなく、メディアの形式によって一定なものです。
参加度とは情報の密度によって受け手による補完の必要度です。
もう少し具体的にいきましょう。

ホットなメディア
高精細度=低参加度を意味します。情報の精度が高いため、受け手が自ら補完する必要がないメディアです。
具体的にはラジオ、活字、映画などです。

クールなメディア
低精細度=高参加度を意味します。情報の密度が低いため、受け手が解釈し、補完する必要があるメディアです。
具体的には話し言葉、テレビ、電話などです。

これは感覚的なもので少しわかりにくいかもしれません。ではこう言い換えてみます。

ホットなメディア
単一の感覚に働きかけるメディア=一対一対応をみせるグーテンベルク時代の視覚空間を生み出すメディア

クールなメディア
複合的に感覚に働きかけ、相互作用を起こすメディア=電子メディアによる聴覚空間を生み出すメディア

まとめるとこなります。

ホットなメディア
これは情報の密度が高いメディアであるため、受け手による補完を必要としないメディアである。情報の密度とは伝えられる内容の善し悪しではなく、メディアの形式によって一定なものである。
具体例としてラジオ、活字、映画などが挙げられる。
また、これらは単一の感覚を拡張するメディアであり、感覚と一対一対応をみせるグーテンベルク時代の視覚空間を生み出すメディアであると言える。

クールなメディア
これは情報の密度が低いメディアであるため、受け手が解釈し、補完する必要があるメディアである。情報の密度とは伝えられる内容の善し悪しではなく、メディアの形式によって一定なものである。
具体例として話し言葉、テレビ、電話などが挙げられる。
また、これらは複合的に感覚を拡張するメディアであり、中枢神経を拡張する、もしくは聴覚、触覚を拡張するメディアであると言える。

こんな感じにまとめることができるでしょう。

次は「メディアはメッセージである
これに関してはまだまだまだまだ理解が甘く、間違いを含んでいる可能性が高いためあしからず。

新しいテクノロジー(メディア)は新しい環境を作り出し、取り込んでいく。その際、メディアによって伝えられる内容ばかりに目を奪われるのではなく、環境に変化をもたらすメディアの形式を読み解かなくてはいけない。そうしなければ新しいメディアの制御装置になってしまうだけで、環境に力を及ぼすことができないためである。
以上の理由から、メディアの形式、それによってもたらされる変化を読み解くべきであるという意味を込めた言葉であると言える。

ちょっと言葉がかぶってる感じがありますが、今日はこの文章二発目だからご勘弁を。


さて、この言葉の趣旨はこんなところだと解釈しているのですが、メディアに対する姿勢を考えさせられますね。
mixi,twitterといった新しいサービスが普及している現代においてこそ、メディアの形式、それがもたらす変化を考える意義は大きいでしょう。
これからもメディアに関わっていくことを志している以上、この姿勢は身につけなくてはと思う今日この頃です。

マクルーハンに関しては「地球村(global village)」という概念も有名なひとつですが、これについては今後どこかで記事にできたらな。と考えています。

では、一日に二回同じような記事を書くのは大変でしたよ。と
ではでは